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1980.8 テニスコートをインドア含む21面増設。
     多目的施設「SP広場」オープン。
1980●黒澤明監督の「影武者」がカンヌ映画祭グランプリを受賞。
1981●スペースシャトル「コロンビア」初飛行に成功。
1982●「笑っていいとも!」が放送開始
1983●任天堂が「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を発売。
1984●シンボリルドルフが無敗の三冠馬となる。
1985●国際科学技術博覧会「科学万博-つくば '85」開催。
1986●ハレー彗星が76年ぶりの地球接近。
人と自然とスポーツの触れ合いのさらなる発展を目指し、1977年の宿泊・スポーツ施設の新・増設からわずか3年、レクリエーションゾーンの強化を行いました。まずインドアを含み、東北の一大テニスゾーンの構築を目指して21面の規模を誇る会員制の「SUGOテニスクラブ」を設立。オープンを記念した8月1日のエキジビションマッチでは、クラブのアドバイザープロの田村伸也をはじめ4名の有名プロが参加。5つのクラスが用意されたスクールも好調にスタートをきりました。さらに10月には、ビョルン・ボルグ、ジミー・コナーズなど世界トッププロを迎えての「SUGOスーパースターテニス」とクリニックを開催しています。また、多目的広場として常設ステージを備えたSP広場もオープンし、10日には1万3千人のファンを集めた「第1回SUGOサウンドフェスタ」を開催しました。
 
インドアコートを含む21面のコートを増設。同時に多目的施設としてSP広場もオープン。野外コンサートに各種スポーツ会場として幅広く利用される。
1980.9 初の4輪レース、全日本FPレース開催。  
ロードコースで初の全日本格式の4輪レース「全日本フォーミュラパシフィック選手権」、記念すべき第1回目の勝者はマーチ79B・ニッサンを駆る長谷見昌弘だった。
4輪レースの開催は1975年にオープン以来5年後の1980年9月「日本フォーミュラパシフィック選手権」が行われた。フォーミュラパシフィック(略称=FP)は、主にアジア・オセアニアを中心に行われていたカテゴリーで、日本では1977年からトヨタと日産が1.6リッターのエンジンを供給して開始された。菅生初レースには、中嶋悟、長谷見昌弘、高橋健二ら12台がエントリー。長谷見昌弘(マーチ79Bニッサン)が記念すべき優勝者となった。マカオGPがF3に変更されたことに伴い、日本を含む各国でも行われなくなり1982年でシリーズは終了した。菅生では1982年までの3年間に4回開催され2回大会からは星野一義が3連勝を飾った。  
1981.8 セイコーワールドスーパーテニス開催。  
80年に増設されたインドアコート、ボルグ(写真上)やコナーズの来場で湧いたオープニングイベント。写真右は予選会の当時のトップランカー神和住純。
1980年に新設され、ボルグやコナーズの来日で湧いたインドアコートを舞台に、8月20日〜23日の4日間、セイコーワールドスーパーテニス大会の国内予選が開かれた。出場プレーヤーは国内トップランキング上位に名を連ねる強者ぞろい。男女シングルス、そして混合ダブルスの3種目にわたって、迫力あるラリーの応酬が繰り広げられた。テニスのビッグマッチも菅生には欠かせないイベントの一つとなった。  
1981.11 第1回村田SUGOマラソン開催。
ロードコースをスタートした第1回大会。翌年の第2回大会からは42.195kmのフルマラソンが開催されている。
根強い人気のジョギング、マラソンブームを反映して、菅生でもマラソン大会が企画された。スポーツランド菅生のロードコースをスタートし、蔵王山麓をめぐる30キロコースのほか、誰でも参加できる10キロコースも併催。11月22日の大会当日には、予想を遙かに上回る512人のエントリーがあり、主催者は対応に右往左往、うれしい悲鳴をあげた。幸い事故もなく、ほとんどの出場者がそれぞれの満足のゆくタイムで走りきった。
1982.6 全日本F3選手権第5戦開催。
前年開催予定だったが悪天により中止となり、82年が実質初開催となった。生憎の雨天となったが12台のマシンが28周のレースを競った。
前年開催予定だったが悪天候により中止となり、82年が実質初開催となった。生憎の雨天となったが12台のマシンが28周のレースを競った。



1982.8 角川映画「汚れた英雄」ロケ地に。  
大藪春彦原作、角川映画「汚れた英雄」のサ−キットシーンのロケが菅生ロードコースで行われた。主人公北野晶夫はスタントの平忠彦と同じコスチューム。
モーターサイクル小説の名作「汚れた英雄」(大藪春彦原作/角川・東映提携作品)の映画化に伴い、ヤマハ発動機株式会社とともにスポーツランドSUGOも全面協力。8月28日からの3日間、ロードコースでエキストラ5千人を集めてのSUGOロケーションを行いました。28・29日は、全日本ロードレース選手権第8戦の開催に合わせたもので、全日本の各ライダーの協力も得ながらレースシーンを撮影。さらに30日には、北野晶夫を演じる主演の草刈正雄を平忠彦、そのライバルである大木圭史役の勝野洋に木下恵司が成り代わり、2人のデットヒートシーンを撮影しました。また30日に併催された「サマーフェスティバル」には、映画出演者全員に加えて薬師丸ひろ子もゲストで登場し特別ショーを盛大に行いました。  
1983.4 第1コーナー改修、全長2.66kmに。
     パドックにウイナーズサロン新設。
 
ストレートからハイスピードで回り込む第1コーナーに安全面を考慮してS字カーブが増設された。これに伴い全長は2.6633kmに延長された。 また、パドック内にも憩いの場としてウイナーズサロンが新設された。
オープンの1975年以来、格段に向上したマシン性能に対応するべく、ロードコースの中でも最大の難所と言われた高速の第1コーナーに、S字カーブが新設された。最終コーナーから急な上り坂のストレート、そこから続く第1コーナーは、高速コーナーでライダーのテクニックを要する重要なポイントであった。が、それだけにアクシデントも多く、安全面から考えても今回の改修となった。これでコース全長は2.6633kmに延長された。また、選手たちの憩いの場としてパドックの真ん中にウイナーズ・サロンを新設。コーヒーやサンドイッチをつまみながら仲間との交流の場として大好評。  
1983.6 人気のグランチャン、SUGOでも開催。
     続いてスーパーシルエット選手権も開催。
 
9月にはスーパーカーブームで人気のスーパーシルエット選手権も開催。長谷見昌弘のトミカスカイラインターボが優勝。
人気のグランチャンシリーズが菅生でも開催。1983年6月の初開催レースではオープンシングルシーターのマーチ812・MCSⅡを駆る和田孝夫が30周を走り切った。
970年代から富士で始まった人気シリーズGC(グランチャンピオン)レースが菅生でも開催された。1983年は和田孝夫(マーチ・MCS)が優勝、松本恵二、関谷正徳、中嶋悟らが参加。1984年は萩原光が優勝。東北GCの冠のもとで行われた1985年は星野一義、萩原光の師弟コンビが1・2フィニッシュを果たした。1989年には富士、鈴鹿と菅生を合わせた全国規模の「全日本グランチャンピオン・シリーズ」に変更されたが、様々な理由からこの年をもって廃止された。 1983年9月に「スーパーシルエット選手権」が開催された。この頃、子供らにスーパーカーがブームとなり、その人気の一端ともなった。スカイラインターボ、シルビア・スーパーシルエットなどがハデな外観などから人気を集めた。  
1984.4 東北スーパースポーツカーレース開催。
     世界耐久選手権用ポルシェ956も登場。
 
のちにル・マン24時間などで人気となった世界耐久選手権(WSPC)の最強マシン・ポルシェ962、トヨタ、ニッサンのCカーなども参加する全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権シリーズ(JSPC)へと進化していく。
国際的な流れはグループ6のスーパーシルエットからグループCに移行。1984年には「東北スーパースポーツカーレース大会」が開催され、フェアレディターボCを駆る柳田春人が優勝。翌1985年9月の「東北スーパースポーツカーレース大会」には、1982年のル・マン24時間にデビュー、1~3位独占の偉業から注目されたポルシェ956が東北初お目見え。ベテラン高橋国光が乗り込み圧勝。10月にも「スーパーカップレース」が行われ9月の優勝マシンには高橋健二が乗り込み、2台目のポルシェ956には米山二郎が参戦。3位の茂木和男(BMW・M1C)以下を周回遅れにして1・2位を果たす。  
1985.6 新シリーズ全日本ツーリングカー選手権。
     SUGOがシリーズ第1戦として開催。
 
市販車をベースとして改造を施したツーリングカーで争われる新シリーズ、排気量別に1クラスはトヨタ・レビン、2クラスはニッサン・シルビア、3クラスはニッサン・スカイラインRSがそれぞれ優勝を果たしている。
1985年から制定されたグループA規定によって争われたツーリングカーレース。記念すべき開幕戦は6月の菅生で開催され、トヨタカローラレビン、日産スカイライン、シルビア、BMW635CSiなどが参加した。3つのクラスに分けられ、クラス1が星野薫組TRAMPIO LEVIN、クラス2は袖山誠一組オートスポーツニッサンシルビア、クラス3は都平健二組リミットスカイラインRSターボが優勝。翌1986年には三菱ワークスのスタリオンが参戦。1987年にはチーム・トムスがスープラを菅生に持ち込み初優勝。1990年には星野一義がスカイラインで鈴木利男と組み優勝。星野は1992年まで菅生で3連勝を達成した。  
 
 
 
1986.10 第14回TBCビッグロードレース。
     ローソンと平の一騎打ちに逆転勝利。
 
ヤマハYZR500勢が速さを見せるGP500。世界チャンピオンのエディ・ローソンと平忠彦(前の①)のデッドヒートが展開。最終ラップ、最終シケインまでもつれ込んだ2台は平の劇的な逆転優勝。
第14回は、エンターテインメント性を追求した「TBCビッグロードレース」を象徴するような大会となりました。同年の世界選手権GP500でチャンピオンとなったエディ・ローソンを筆頭に、ランディー・マモラ、マイク・ボールドウィン、さらに世界選手権GP250の平忠彦、全日本の河崎裕之ら、国内外のスーパースターがGPマシンを駆るとあって過去最多となる4万人のファンが押し寄せたのです。さらにレースも最終ラップの逆転で平がローソンを100分の3秒差で抑えて優勝する劇的なものとなり、多くのファンを虜にした。その後も「TBCビッグロードレース」は、全日本ロードレース選手権と併催するなどにより最大4万6千人を動員するなどの盛り上がりを見せましたが、日本の世界選手権が復活(1987年)するなどもあり、1994年の第22回大会でその歴史に幕を下ろします。  
     
 
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