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1975.5 210万㎡の敷地に国内有数のモーター
    スポーツ・レジャー施設としてオープン
1975●広島カープ、セ・リーグ初優勝。
1976●富士スピードウェイでF1日本グランプリ初開催。
1977●巨人の王貞治選手がホームラン世界新記録、756号を達成。
1978●池袋に60階建の高層ビル「サンシャイン60」が開館。
1979●ソニーがヘッドホンステレオ「ウォークマン」を発売。
スポーツランドSUGOは、210万平米の雄大な自然、太平洋を一望できる景勝の地に、ロード、モトクロス、トライアル、カートなどのコースを持つモータースポーツゾーンを中心に、「冒険ジャルダン」「乗物広場」といった大自然を舞台としたスポーツ施設を備える、新しい総合スポーツ・レジャーの場「菅生」として1975年5月1日にオープンしました。オープンからの5日間は、「菅生オープニングウィーク」と題したイベントを開催。地元・村田町の大平良治町長とヤマハ発動機株式会社の小池久雄社長によるテープカットで始まり、「全日本選抜ロードレース」「菅生チャレンジカップモトクロス第1戦」などのレースをメインに、フォーク、ロックの人気バンドが集う「ミュージック・イン・スゴー」のほか、各種教室などを行い、子どもから大人まで5日間で約4万人が来場。人と自然とマシンとのふれあいを高め、より豊かなスポーツ・レジャーを創造する東北の新名所として最高のスタートを切りました。。
 
5月1日に国内トップライダーが参加して華やかなオープニング・セレモニーが催された。人と自然とマシンのふれあいをテーマに大勢の人が詰めかけオープニング・フェスティバルは大盛況。
国際カートコースは1000mをオーバーの国内最 大級の規模を誇る。5月4日には早くも全日本カー ト選手権第3戦が開催された。
1975.7 全日本ロードレース選手権の開催  
全日本ロードレース選手権第6戦はヤマハ勢が活躍、ジュニア350ccの大島孝治、ノービス250ccの長谷川利之、EJ750ccの石井康男、セニア125ccの江崎正らが優勝をものにした。
スポーツランドSUGOにおける「全日本ロードレース選手権(第6戦)」の初開催は、オープンからわずか2ヵ月後の7月20日のことでした。さらに東北では初の開催であり、「菅生サマーカーニバル」のオープニングデーでキャンプ場がオープンしたこともあって、地元を中心に約3千人のファンが集いその醍醐味を堪能しました。レースは、当時の最高峰クラス(エキスパートジュニア、セニア750混走)に、ヤマハ「TZ750」で出場する高井幾次郎を含め19台がエントリー。30周の決勝は、スタートミスで出遅れた高井が6周目にトップへ浮上すると、その後は独走して2位に38秒の差をつけて優勝。さらにセニア125でもヤマハライダーが優勝し、SUGO初の全日本ロードレース選手権の開催に華を添えました。ちなみにSUGOでの全日本選手権の初開催はトライアル(第5戦)で、オープンから10日後の5月11日に行っています。  
1976.4 全日本モトクロス選手権の開催  
8月1日には全日本モトク ロス選手権第4戦が開催。125ccクラスではヤマハ の杉尾良文選手が優勝。 250ccクラスではルーキ ー福本敏夫選手が並みい る強敵を退け優勝した。 当時のモトクロスコース は本場ヨーロッパのコー スに似せて、強烈な逆さ 落としの下り坂など日本 一の難コースとして知ら れていた。
スポーツランドSUGO初の「全日本モトクロス選手権(第4戦)」の開催は、ロードレースから遅れること約9ヵ月後の1976年4月25日。その舞台となった「菅生ハイランド」は、ロードコース内にあり全長1.7km、モトクロスの本場であるヨーロッパに習った設定と、レース展開を見渡せる日本有数のコースでした。レースには約350台がエントリーし、前日に雨が降ったおかげでホコリが立たない絶好の観戦日和となった決勝には、約5千人のファンが詰めかけました。なかでも、最高峰セニアクラスの激戦にファンは熱狂。セニア125ではデットヒートの末、ヤマハの杉尾良文が優勝。セニア250ではヤマハの鈴木都良夫がトップを走行中にラスト1周で転倒し、これでトップに立った福本俊夫(カワサキ)が優勝を飾っています。  
1976.8 全日本ロードレース選手権を中心として
     サマーフェスティバル in SUGOが開催
 
サマーフェスティバル・イン菅生にはトランザム、ゴダイゴなど人気グループも参加のコンサートなど各種イベントが催された。 同時開催された全日本ロードレース選手権第5戦は750cc、350cc、125ccの3クラスが開催された。750ccクラスの高井幾次郎選手〔写真〕などヤマハ勢が実力を発揮、勝利をモノにした。
2年目の夏を迎えたスポーツランド菅生を舞台に7月31日・8月1日の2日間開催された「サマーフェスティバル・イン菅生」は、全国から延べ21,000人の入場者が詰めかけた。「'76ロードレース全日本選手権第5戦」をはじめ、ヤマハセニアライダーと競う「第2回SLモトクロス大会」、菅生の自然の中に10セクションで競われたトライアル、2名1組で参加するカートレースと多彩なレース・プログラムが用意され、バイクの楽しさ手軽さを体感できる参加型イベント、前夜祭として行われたロックフェスティバル、お祭り広場の郷土芸能祭りなども催され、グループやファミリーで遊べるスポーツランド菅生を満喫した。  
1977.4 ホテルくぬぎ山荘、テニスコート、プール、
     アーチェリー場などの施設を充実
 
人と自然とマシンのふれあいをテーマに、東北一のモータースポーツ・レジャー施設をめざし、各種施設のの拡充が図られた。
オープンからレースをはじめとするイベントの充実に力を入れてきたスポーツランドSUGOでしたが、3シーズン目を迎えた1977年3月、家族で楽しむスポーツランドとしての可能性をさらにひろげることを目的に、各施設の新・増設を行い新装オープンしました。その中心となったのが、宿泊施設「ホテルくぬぎ山荘」の新館オープン(3月12日)であり、従来の90名(25室)から、300名(50室)の収容が可能な大規模宿泊施設に生まれ変わりました。さらにテニスコート、プール、パターゴルフ、アーチェリー場などのスポーツ施設を新たに加え、家族で楽しむ空間としてさらなる一歩を踏み出しました。  
1977.5 SUGOスプリングフェスティバル、
     750ccロードレースとカートのW開催
 
「菅生スプリングフェスティバル」は2つのビッグイベントが組まれた。一つは国内初開催となる「第1回TBCビッグロードレース・フォーミュラ750」。本命・高井幾次郎が転倒、②金谷秀夫が35周の2ヒートを制した。もう一つは全日本カート選手権第2戦「'77ゴールデンカートレース」を同時開催。
2つのビッグレースを軸に2万5千人もの記録的な観客を集めて開催した一大イベント。特に東北放送開局25周年を記念して企画した「TBCビッグロードレース」は、当時の国内最高峰クラス、フォーミュラ750(501〜750cc)のマシンだけを使用。ヤマハを中心とした日本人トップライダーが参戦し、総額500万という破格の賞金を設定するなど大きな注目を集めました。レースもヤマハの金谷秀夫が優勝、ヤマハ「TZ750」が上位7位を独占する活躍などで大成功をおさめましたが、その後も、ヤマハの国内外のスターライダーが共演する夢のスペシャルレースとして日本のロードレース人気をけん引していくこととなります。もう一つが、JAF(日本自動車連盟)の全日本カート選手権の第2戦として組まれた「'77ゴールデンカートレース」。香港の女性カーターを含むのべ120名が熱戦を繰り広げ、国内モータースポーツにおけるカートレースの存在感を高めるなど、その人気を大きく後押しするイベントとなりました。  
1977.9 初の国際カートイベント
     「ジャパンカートレース」開催
 
本格的なインターナショナルイベント、'77ジャパンカートレース(79年からJKGP)は7カ国47名の国内外トップカーターと12,000人の観客を集め盛大に行われた。
1975年、国内最大規模のコース(1,050m)として造られたSUGOカートコースは、1977年にFIA-CIK(国際自動車連盟/国際カート委員会)の国際公認コースとして登録。その年に国内初の国際格式レース「第1回ジャパンカートレースミーティング」が世界のトップドライバーを招へいして開催された。7ヵ国47名の海外国内トップドライバーが集結して栄冠を競い合った。翌1978年には、ブラジルから18歳のアイルトン・セナ(当時は、アイルトン・センナ・ダ・シルバと呼ばれていた)が参戦(成績は4位)。セナは、79、80年のカート世界選手権に出場(両年とも2位)し、その後、4輪フォーミュラ、F1で大活躍する。  
翌年第2回大会には、18歳で参加したアイルトン・センナ・ダ・シルバ、後のF1GPチャンピオンのアイルトン・セナはここSUGO国際カートコースから世界に羽ばたいた。
1978.10 第4回TBCビッグロードレース開催
      WGPキング、ケニー・ロバーツも参戦
 
1978年の「TBCビッグロードレースF750」にはWGPチャンピオンのケニー・ロバーツ、78年世界選手権F750チャンピオンのジョニー・チェコット、美しいライディングフォームで人気のクリスチャン・サロンなどそうそうたるメンバーが菅生に顔を揃えた。
「TBCビッグロードレース」は、同年5月の第3回大会ですでに海外ライダーを招待しており、1967年の世界選手権・日本GP以降、海外のトップライダーを間近に見る機会を失っていた日本のファンにとって大きな意味を持つ大会になっていました。そして第4回大会は、この年にヤマハ「YZR500」で世界選手権GP500のチャンピオンに輝いたキングことケニー・ロバーツ、世界選手権F750チャンピオンのジョニー・チェコット、同ランキング3位のクリスチャン・サロンら世界のトップライダー5名を招待。チェコットが制したレースには3万2千人もの観客が集まりました。このように「TBCビッグロードレース」は1977年の初開催以来、着実にモータースポーツファンの心をつかんできましたが、第4回はその人気不を動のものと決定づける大会になったのです。  
1979.10 第16回モトクロス日本グランプリ
     21歳の光安鉄美が大活躍
 
79年全日本モトクロス選手権シリーズでの125/250ccクラスでダブルタイトルと2年連続の日本一を懸けた最終戦・日本グランプリに臨んだヤマハYZMの光安鉄美が見事、念願の大記録を達成した。
「全日本選手権シリーズ第9戦・第16回日本グランプリ」は、シーズンのタイトルをかけた大一番として行われました。ここで注目を集めたのが「天才少年」と呼ばれた光安鉄美です。セニア125はヤマハ「YZM250」を駆る光安とチームメイトの藤秀信によるタイトル争いが繰り広げられ、光安がセニア125初のタイトルを獲得。さらに激しい雨の中で行われたセニア250では光安が2年連続となるチャンピオンとなり、21歳という若さでダブルタイトルという栄冠に輝きます。これを機に光安は「天才少年」から日本を代表するトップライダーとなり、翌1980年には世界選手権に参戦。その後「鉄人」という異名で呼ばれるように1998年まで全日本に参戦を続けていくこととなります。  
1979.10 ジャパンカートにグランプリの冠が。  
名実ともに国際大会として注目の一戦となったJKGP。大勢の外国勢が詰めかけ、勝ったのはラース・フォースマン。左から2人目は2位に入ったマイク・ウィルソン。彼はこのJKGPから育ち6度の世界王者に輝く。
初開催から3年後の1979年のジャパンカートレースは、"グランプリ"の冠がつけられ、名実共に国際大会として世界中のカート界から注目されるイベント「JKGP」となり、各国のワークスチームが数多く参戦してくる。レースは豪雨の中、決勝ヒートがスタートし、スウェーデンのラース・フォースマンがビレルワークスの貫禄を披露して優勝。翌1980年のJKGPでは、イギリス人でイタリアに移り住んだマイク・ウィルソンが制覇し、このJKGPをキッカケに翌年の81年、82年、83年カート世界選手権で3連覇を成し遂げる。さらに85年、88年、89年と6度の世界王者に君臨した  
     
 
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